ジーマ船長

ジーマ船長の 痛快!!「船内は時化模様」

【第十八回】アンビュランス!!

ここは中国のドックである。吾輩の船は船殻大工事(せんかくだいこうじ)のため、もう1カ月もドック岸壁に横付のままだ。あと1カ月もいなければならない。鉄鋼工事が世界一安い! と評判のドックなのであるが、「安物買いの銭失い」の諺(ことわざ)どおり、いろいろと問題があって大変なのである。

まず、肝心の溶接工事が粗雑ときている。われわれクルーが終了箇所をチェックするが、一発でOKを出した試しがない。

「どうせやり直しなんだから、最初は多少雑でもかまわない」と思っている。そう勘ぐりたくなるような状況だから、工事計画はあるようでないが如しなのだ。しかし、会社からは「とにかく工期を短く、鉄鋼特需の恩恵にあやかるため、少しでも早くドックを出して、稼げ!」と矢の催促である。

昼夜兼行の突貫工事で作業に切れ目はなく、対応に大わらわなのだ。さらに、コソ泥がなんとも多い。吾輩のところへは、毎日のように「安全靴がなくなった」「南京錠が壊された」「接待用のミネラルウォーターがなくなった」など、クルーからの苦情が絶えない。その都度、吾輩は主任技師と弁償交渉を行わなければならないのである。

吾輩はカピタン(スペイン語で船長、フィルクルーからはこう呼ばれている)。名は「ジーマ」だ。ドック修理(メンテ)の総監督は、本社からやって来た本船担当の工務監督が執る。運航責任者のカピタンの責務が免れるわけではないが、メンテに関しては吾輩の上に監督がいるわだから、その分、少しは責任と義務が減るはずだ。

ドック前には「少しのんびりできるかな?!」と高をくくっていたのだが、現実は甘くなく、絵に描いた餅であった。さまざまなトラブルや応対にのんびりどころか、航海中にも増して忙しい毎日になったのである。

そんなある日のこと。朝飯をすませ、部屋でノンビリしようとする矢先のことだった。船長公室の電話のベルが鳴った。
ん?!どうせチョッサー(一航士)から「あのメンテはどう対応したら良いか?」。そんな内容に違いない。

「君は甲板部の責任者なんだからして……、少しは自分で判断してくだされ」。そんな文句を思い浮かべながら受話器を取った。

ところがである。いつもの声色ではないのだ。壊れたラジオのように途切れ途切れで、声が緊張のあまり上ずっている。

こんな時はのんびり話すに限る。「チョッサー、落ち着いて、落ち着こう。ゆっくりしゃべろう、そう、ゆっくりだ」。そう言っても途切れる彼の話を総合すると「本船クルーの溶接作業員S君が部屋で倒れている。意識がはっきりしない。床には血が流れている。死にそうな様子です」というものだった。

チョッサーに「よいか。絶対に身体を揺すったり、動かしてはいけない。そのままにしておけ。すぐに行く!」と指示を与え、吾輩は現場へ急行した。

S君の部屋の前は、通路から奥まで黒山の人だかりで、みんな暗い顔で心配そうだ。

「みんな、とりあえず落ち着こう。焦っても良いことは一つもない」「キープカーム(KEEP CALM=穏やかにしよう)だ」。

まずみんなを落ち着かせ、自からにも「あせるな。こうした事態ほど冷静になるのだ」と言い聞かせながら、状況を見る。

ベッドに横たわるS君の顔色はかなり悪い。うつろな目が中空をさまよっている。そうだバイタルサイン(VITAL SIGNS=意識、顔色、脈拍、体温、血圧等の人体の生存にかかる基礎データ)のチェックをしよう。

はなはだ失敬な言い方だが、とりあえずは死んではいない。だが、「おーい、S君。聞こえるかー?」返事がないのだ。フィルクルーは色黒の者が多く、顔色による判断はかなり難しい。

それでも容体が悪いことに間違いないようだ。脈は正常のようだし、体温も平熱だ。

床には、おちょこ1杯分くらいの血の混ざった唾(つば)を吐いた跡があるが、吐血ではないようだ。多分、倒れた時にどこかに顔をぶつけて、口の中を切ったためのようだ。その証拠に唇の辺りに打撲の跡のような腫れがあった。全体の様子から、少しは回復しているようにも見える。

よし! アンビュランス(AMBULANCE=救急車)だ。担架の用意だ。身体を動かさないようにして乗せよう。そうだ、その調子だ。

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病院へ搬送されたS君の診断は「軽い脳梗塞だが、予断は許さない。なるべく早く下船して精密検査が望ましい」というものだった。

また、医師からの情報によると、S君は、陸上で働いていた頃、同じような症状を起こし、病院へ担ぎ込まれたことがあったと話したという。今回は軽かったから良かったものの、重症であったら帰らぬ人になっていたところだった。

結局、S君は今後のことも考え、数日後に下船することになった。大事を取るに越したことはない。不幸中の幸いに終わった一件だったが、もしこれが航海中に起こったら……と考えると冷や汗ものである。

大洋航海中に「救急車を呼べ!」というわけにはいかない。患者が出たら「無線医療助言通信」も活用しながら、航路変更せずに患者は大丈夫か、だめなら最寄港への緊急入港の選択を決断をしなければならない。

そんな事態の判断は、悩ましく難しい。何をおいても「人命第一」だから、状況によれば船の針路を反転、引き返す勇気も持たねばならない。一船を預かる仕事はやりがいのあるものではあるが、その責任は重い。そして、権限には大きな責務が伴うものである。
B.Rgds by Capt. Jima

(注)シリーズ第18回は「海員」09年3月号に掲載されたものです。

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