ジーマ船長

ジーマ船長の 痛快!!「船内は時化模様」

【第十二回】豪州昆虫軍 恐怖の特攻隊

何年か前のことである。二十数年ぶりにオーストラリア(豪州)のヘッドランドに入港した。初入港は、商船学校を卒業した吾輩が、大いなる志を胸に船乗りとなって2隻目の船だった。その後、4隻目と5隻目も鉄鉱石運搬船で、積出港は決まってヘッドランドだったのである。

まだうら若き頃で、ちょうど結婚前後と記憶している。何事にも充実の時期であったし、ピストン航海で嫌というほど来た港だったので、懐かしい思い出にあふれるはずであった。

そんなことから、外洋より沿岸へ、港外から港内へ船が進めば、走馬灯のように記憶が戻るに違いない。そんな期待をもって操船指揮を取っていたのだが…、 何としたことか。いつになっても港へのアプローチが思い出せないのである。

昔、何十回と通った港である。どの岬が一番先にレーダーに映るのかも、覚えていたはずである。それなのにチャート(海図)を見ても、海岸線を見回しても、初めての港に入るかのように思い出せないのだ。「歳は取りたくないものだ」と首をひねりながら意気消沈の態(てい)であった。

しかし、しばらくすると、霧が晴れるように薄っすらと見えてきたのである。ヘッドランドは今も昔も変わらない。こじんまりした集落、そう呼ぶにふさわしい港町で、何にもないのである。若き船乗り時代の港だったが、そんなことから上陸した記憶もない。そのため鮮烈な印象や記憶に付随するであろう事柄もなく、はからずも忘却の彼方へ去ったものと思われる。

さて、記憶が一向に定まらないヘッドランドだが、唯一、忘れ難い思い出がある。あまり思い出したくない事件であるのだが、これだけは鮮明に思い出すことができる。

それは、夜の帳(とばり)が下りると、どこからか大挙襲来する豪州昆虫軍である。ここの昆虫軍はかなり訓練されていて、まったく人を恐れず、手強い。手で払い除けるぐらいでは逃げないし、やたら攻撃的なのである。

部隊も多彩だ。米粒ほどの小さな蠅(はえ)は、口や目などを攻撃目標とする。蟻(あり)と虻(あぶ)をかけ合わせたような巨大羽蟻(はあり)は、振り払おうものなら凶暴に噛みついてくるのでたまらない。そして、絶対逃げない蛾(が)なんてのもいたのだ。

彼らは白ペンキが大好きだ。塗りたてが特に好きで、そこが真っ黒になるほど群がるのである。あちらこちらのライト下には、昆虫軍が飛び交って、うっとうしい限りである。こうした波状攻撃が明け方まで続いて、朝一番の仕事は、戦闘に破れた亡き骸の掃除だったのである。

こうした部隊は、群がる場所に近づかなければ被害はない。 しかしである。昆虫軍の中に人への特別攻撃隊がいるのだ。これが小生意気なチビで始末に悪い。言うところの「ブヨ」だ。

日本のブヨも小さいが、ここのは塵(ちり)のような奴なのだ。「山椒は小粒で、ピリっと辛い」というが、「豪州ブヨはチビで、めちゃめちゃ痒い」。

ブヨの繁殖は夏だから、日本では1・2月にあたる。当時はモーレツに暑く、吾輩は半袖でデッキに出ていた。蚊の場合、刺されるとすぐに痒くなるが、豪州ブヨは痒くも何ともなく、一円玉程度の赤斑になるだけだ。初心(うぶ)な船乗りは、性悪な雌ブヨの存在なんぞ知る由もなく、腕や顔が赤あばたになったのを見て、何となく薄気味悪く思っただけだったのであった。

当直が終わり、シャワーを浴びてベットに潜り込んだ。若い頃だから、あっという間に夢の中へ。やがて丑三つ時、何やら寝苦しくて目がさめた。途中目が覚めることはまずないのだが、腕や顔が無性に痒い。見ると赤斑が丘状に膨らんで、めちゃめちゃ痒いのだ。寝ているうちに掻きむしったようで、血がにじんでいるところもある。とにかく痒い。叫び声をあげたくなるほどであった。

痒み止めはどこだ。眠気は吹っ飛び、記憶の糸の先をたどり、公室の引き出しに万金油(タイガーバーム・クリーム)があったのを探り当てた。矢も盾も射られ ず塗りたくったところ、痒みは一応治まった。もちろん顔にもこれを塗った。メンタムと同じ匂いがして、スーっとして気持ちい~い。その後、ぐっすりと寝込 んでしまって、当直交代の電話で起こされた。飛び起きて急いで顔を洗い、鏡を見てびっくり! 何じゃ、こりゃ?

万金油を塗った赤斑が赤黒く変色しているのだ。当直交代のため仕方なく、そのままブリッジへ駆け上がった。

吾輩の顔を見た誰もが腹を抱えて大笑い。中にはあばた面をいぶかい、良からぬ病気と疑って、寄り付かない者まで出てくる始末であった。冗談じゃない。

「サード・オフィサー、それは、万金油をつけたんだな? あれは強い薬だから、顔なんかには絶対塗るもんじゃねえ」とベテラン甲板手から諭された。

「そういうことは先に教えてよ~!」と言っても始まらない。赤黒い斑点は、当分の間、消えなかったのである。

さらに問題なのは、痒みが一向に治まらないことであった。船の常備薬から、痒み止め軟膏や飲み薬など、手当たり次第に試みたものの効き目なし。その後、 10日ほどして、日本へ着く頃になってようやく、斑点も痒みも治まったのであった。

いやはやひどい目にあったものである。結局、豪州昆虫軍特攻隊にやられたのは、初心な船乗り一人だけであった。ほかの連中は、勝手知ったる者であるからして、防虫スプレーと長袖防備で攻撃を免れたようだ。

備えあれば憂い無し。刺されてからでは遅いのだ。刺されないようにすること、すなわち防備が一番だということを胆に銘じた出来事であった。嗚呼! 思い出しただけで、身体中が痒くなってくるのである。
B.Rgds by Capt.Jima

(注)シリーズ第12回は「海員」08年9月号に掲載されたものです。

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