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日本の商船

大量戦没者を出した船団

船団について

1942(昭和17)年10月9日 米軍が撮影したチョイセル島東方沖のトウキョウ・エクスプレス

1942(昭和17)年10月9日 米軍が撮影したチョイセル島東方沖のトウキョウ・エクスプレス
米国立公文書館所蔵

船団とは多数の船舶を艦艇が護衛しながら人、物を運ぶ目的で運行されることですが、太平洋戦争中に名前を付与された船団には、商船1隻の場合もありました。

開戦に先立つマレー半島上陸部隊の輸送や比島への部隊輸送を除いて、構成した商船の一番多かった船団はミ05船団で、参加商船33隻、護衛8隻、合計41隻でした。
本船団は昭和19年6月3日伊万里からミリに向け出港し、途中1隻が米潜水艦の魚雷攻撃で被害を受けたが、6月23日ミリに到着しております。

上記の説明は駒宮真七郎著「戦時輸送船団史」より引用しています。
(注)チョイセル:ソロモン群島 ミリ:ボルネオ島の西海岸

船団名

数字で表していた船団名には基本的には内地を出発する船団の下1桁は奇数番号、内地に向かう船団には偶数番号を付与しておりました。
しかしこのような番号付与は必ずしも守られず、例えばパラオから佐伯(大分県)に向かう「フ206」という船団を例にとれば、フは出港地「パラオ」、目的地「佐伯」を表し、2は日付の下1桁、06は護衛を除く参加隻数を表していました。
フ206:19年9月12日と9月22日の2回、パラオを出港しています。

しかしこれも一例であり実際には漢字と数字、数字のみ、アルファベットと数字などを組み合わせておりました。
船団について詳しくお知りになりたい方は、大井篤著「海上護衛戦」、戦史叢書「海上護衛戦」をご覧下さい。

参考

日本からの距離・昭和18年の輸送体系図・南方へ移動した満州展開部隊図

※画像をクリックすると大きく表示します

  • 満州展開部隊図
  • 満州展開部隊図
  • 満州展開部隊図

大量戦没者を出した船団

米軍が撮影した日本の商船

戦前に米国が撮影した日本商船

1937(昭和12年)6月18日 米軍が撮影したパナマ運河航行中の大阪商船所属関西丸

1937(昭和12年)6月18日 米軍が撮影したパナマ運河航行中の大阪商船所属関西丸
米国立公文書館所蔵

1941(昭和16)年12月8日、日本は連合国を相手に戦争を始めました。
米国は日露戦争決着のためポーツマスを和平交渉の場として提供することで日本とロシアの戦争を終結させる役目を果たしました。
しかし、米国はこの時点から将来太平洋を挟んで日本と戦争となることを想定し軍備を整え始めました。その後日本は内政の行き詰まりを打破することから満州国を設立し、中国の領土に日本の政治を持ち込みました。国際連盟は満州国を認めず、日本軍を早急に撤退するよう勧告しましたが日本は受け入れず、換えって世界から孤立する結果となり貿易は途絶えるようになってきました。

石油資源はもとより鉱物資源の輸入もままならず、東南アジアにそれを求めるため仏印に進駐したことにより、遂に日本は米英中蘭(A,B,C,D)との間で戦争が始まりました。

開戦に至るまでの期間、米国は日本側のあらゆる情報を収集していた中に、パナマ運河やチェサピーク湾を通過する日本商船を右舷・左舷・平面と三方向から、有事の際に役立たせる目的に撮影しておりました。戦争が始まると撮影した写真を基に攻撃対象の船舶であることを認識する情報として陸海軍の航空部隊や各種艦艇に提供していました。このホームページで掲載しているのは米国国立公文書館で入手した写真です。写真に記載している内容と実際の船名が一部異なっておりますことをお断りしておきます。

戦前に米国が撮影した日本商船

戦時中米国が撮影した日本商船

米軍が攻撃する前後に、撮影した写真です。
潜水艦の潜望鏡を通しての写真や、航空機から爆撃直後の写真があります。
因みに戦時中空爆や、雷撃で沈没した日本の商船は2,000隻を数えております。

戦時中米国が撮影した日本商船

連合軍捕虜輸送中の戦没船

連合軍捕虜を輸送している途中、連合軍が攻撃し戦没した日本商船の再掲です。

連合軍捕虜輸送中の戦没船

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