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戦没した船については、おおよその場所で示しております。
平成23年5月31日現在、対応している海域は以下のとおりです。
引き続き追加修正を行います。
説明のみの船舶におきまして、どなたか写真をお持ちの方は資料館のメールへご連絡下さい。ご協力をお願いいたします。
写真の説明文については一部、駒宮真七郎著「戦時船舶史」から引用しています。
羅州丸 運輸通信省所属 2,300総トン ドイツで建造され旧名はアルグン号と称され明治37年に日本に拿捕され、その後灯台見回り船として使用された。
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羅州丸の号鐘 号鐘は常時、東浦町公民館「サンシャインホール」の図書館に安置しております。 |
羅州丸の座礁状況 |
羅州丸乗組員が語る |
羅州丸の座礁位置 |
模型で復元された羅州丸 この模型は東浦町在住の中山公利様が数年をかけて制作されました。 |
本船は『昭和16年3月海軍に徴傭され、南西方面艦隊気付となる。同年7月10日の南部仏印進駐作戦では護衛艦隊の補給部隊に編入され、 7月16日海南島三亜に集結、陸軍輸送船36隻と共に26日16時00分出撃、29日チオアン沖の錨地に入泊して部隊を揚陸。昭和17年4月には比島東部隊の付属部隊となる。
昭和17年4月には比島東部隊の付属部隊となる。
その後一時的に船舶運営会の配船で宮古から硫化鉱輸送を実施。
その後は陸軍に徴傭され、フィリッピン方面で活躍していたが、9月24日コロン湾で第38機動部隊艦載機の空爆を受け、3隻撃沈、7隻が損傷を受けたが、その中に笠置山丸があり、船長:猪内十一以下3名が戦死。
11月10日、サンフェルナンド沖で操機長:田上初太郎以下8名が戦死している。
本船は翌11日の暴風雨で座礁したが乗組員は船を守っていた。しかし11月24日~25日、米航空母艦エセックスとラングレの艦載機が来襲。その空爆で船体は破壊、放棄された。残りの乗組員21名(加藤、上野、臼田、田口、宮崎、寺村、相良、松井、持田、竹田、中谷、佐藤、小村、山口、茶園、苅谷、豊村、池上、永山、山本、吉田)はルソン島山中に逃れる。しかし敵軍や原住民の襲撃を受け、全員落命している。』
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アメリカから帰ってきた |
笠置山丸 船長印 |
笠置山丸の沈没位置図 |
サンフェルナンド リンガエン湾 |
艦船に造詣の深い佐世保在住の田村俊夫氏から当資料館に提供された、米軍が撮影した商船の写真の一部を紹介します。これらの写真は米海軍歴史センターおよび米国公文書館の所蔵です。
1943(昭和18)年11月跳梁爆弾の攻撃を受け損傷ののちガダルカナル・アルリゴ河口南東370mの海岸に放棄された【山浦丸】
第1番艙と第2番艙のあいだが折れ、前部マストがなくなっており、煙突も前方に倒れている。乗組員および船砲隊は全員ガ島に退避したが翌年2月の撤退までにほとんどの人が戦死した。
山下汽船 6,438総トン
攻撃約1年後米軍が撮影。
大同海運 5,493総トン 81号作戦(第1次ラエ輸送作戦)参加、昭和18年2月28日ラバウルにおいて兵員1,316名、火砲11、車輌12、軍需品2,000立方メートル、大発4を搭載し23時30分発出港、ラエ向け9Ktで船団航行中、2日07時55分頃、グロセスター岬北西海上においてB17七機と交戦、内三機が本船に狙いを定め08時05分高度2000mより爆撃を開始した。
本船は応戦と被弾回避につとめたが、08時16分頃、一・二番艙に被弾同時に火災発生、次いで船速が低下し船列より脱落、かくて09時26分沈没。直ちに護衛の「朝雲」と「雪風]が救助にあたり819名と山砲一門を収容、そのまま先行しラエに揚陸した。
部隊464名、船砲隊21名、船員1名戦死。
沈没位置 南緯05度02分、東経148度14分(グロセスター岬北北西55Km付近)
1943(昭和18)年3月3日ビスマルク海;日本の貨物船を攻撃後垂直尾翼越しにみる。
貨物船の後部には迷彩がほどこされている。
1943(昭和18)年11月2日ニューブリテン島ラバウル・シンプソン湾において米軍機の攻撃をうける【日本丸】型の油槽船。
日本丸型の油槽船は攻撃をかわすため港外に移動しようとしている。
後方は海軍給油艦「鳴門」、左の船舶名は不明。
1944(昭和19)年1月26日ニューブリテン島ラバウル・シンプソン湾において米軍機の攻撃をうける日本丸型の油槽船の拡大写真。
1944(昭和19)年1月31日クェゼリン環礁ネアビー島において米航空母艦エンタープライズ(CV-6)艦載機の攻撃をうけ座礁している【第2報国丸】
1944(昭和19)年3月7日ニューブリテン島ラバウル港付近において米軍機の攻撃をうけ右舷側に半没している貨物船(船名不詳)
1944(昭和19)年6月12日北緯17度07分、東経143度34分(サイパン北西310Km付近)において米軍機の攻撃をうけ炎上している【ばたびあ丸】この後沈没。
大阪商船 4,392総トン
1944(昭和19)年9月12日フィリピン・セブ島北西70Km付近において米軍機の攻撃をうけている【あやその丸】
石原汽船 2,854総トン
米空母ワスプ(CV-18)艦載機から撮影
1944(昭和19)年10月16日南シナ海において米軍B-25爆撃機の500ポンド爆弾の攻撃をうけている2A型戦時標準貨物船。爆撃後上昇しているB-25および画面中央下にはフェリーボートが見える。
1944(昭和19)年10月16日南シナ海において米軍B-25爆撃機の攻撃をうけている2A型貨物船。海面に攻撃機の機影が写っている。
1945(昭和20)年1月12日仏印カムラン湾南方15浬付近において米空母ハンコック(CV-19)艦載機のロケット弾攻撃をうける【極運丸】とおぼしき日本の油槽船
極運丸:極洋捕鯨 10,045総トン
北緯14度20分、東経109度10分(仏印ボンソン南東20Km付近)の浅瀬に乗り上げる。
1943 (昭和18)年11月6日 ニューギニア・フンボルト湾で低空からの2発の跳梁爆弾を今まさに右舷後部に受けようとしている【首里丸】
首里丸:大阪商船 1,857総トン
1945(昭和20)年1月21日対馬付近において被雷沈没。
1945(昭和20)年4月28日仏印サイゴン港付近において3発の500ポンド爆弾の爆撃をうける【干珠丸(旧らぷらた丸)】2発が命中、1発は至近弾となっている。
大阪商船 7,266総トン
1945(昭和20)年7月15日青森発函館向け航行中、北海道狐越崎東方7Km付近において米空母エセックス(CV-9)およびランドルフ(CV-15)艦載機の攻撃をうける【津軽丸】
鉄道省 3,484総トン
1945(昭和20)年7月29日朝鮮半島南岸釜山北30浬付近において米軍機の攻撃をうける【第18小野丸】
【金華丸】1944(昭和19)年11月10日マニラ大空襲の際被弾、6番艙付近からの火災により2日2晩燃え続け16日に至りマニラ湾に擱坐沈没。
大阪商船 9,306総トン
終戦後米軍が撮影、後ろはUSN General William Mitchell(AP-114 兵員輸送艦 19,660満載排水トン)